大学における教育について
(null)/(null)/(null) (null)
この3月に勤め先の大学を定年で退職する.大学を去るにあたって一言を書くようにという要請が大学からあった.それに応えて書いたものが以下の 文章である.ここで議論すべき問題も含んでいるように思うので掲載しておきたい.(E.M.)
九州大学教養部に赴任したのは21年前のことであった.それまで私立大学に勤めていて授業中の学生の私語に悩まされていた私にとって,90 分の授業を集中して聞くことのできる学生の質の高さに驚くとともに感謝したものである.学生の理解力の確かさや勉学意欲の高さにもいたく感激した.教える ことの楽しさを知った.
大学1年生に対する講義で,講義中に「分からない」ことを見いだし,それを質問の形で提出させることを毎回の課題としたこともあった.それ ら一つ一つの質問に対する回答をA4版2枚にわたるプリントとして作り,一週間後の講義で毎回配布した.プリントを作るのにまる1日以上の時間が掛かった が,自分でも楽しく,また,学生には(1)講義を通して物事を考える習慣が身についた,(2)講義に集中できた,(3)毎回の回答書が楽しみだった,など おおむね好評であった.しかし,教養部が解体され,大学院重点化や大学法人化がなされていくなかで,講義のために多くの時間を割くことが出来なくなった.
私は,大学法人化をはじめとした一連の動きに恨みごとを言おうというのではない.むしろ逆に,私のした講義が学生にとって本当の意味で良い ものであったのかは,疑問であると考えている.大学における勉学は自発的になされるもので,学生の疑問に対して安易に答えてしまうことは学生をスポイルし ていることになるのかも知れない.学生が大学において自発的に勉学していくためには,最先端の研究をやっている優秀な教員と若さあふれる学生たちとのゆと りある交流が必要であると考える.しかし残念ながら,いまの大学にそのようなゆとりある交流の場がなくなっているように思われる.
もう一つ気になることがある.学生気質の変化である.六本松のあるスーパーで買い物しているときに1年次の講義で顔に覚えのある学生と出会 い,「その後,勉強はどう?面白い?」と聞いてみた.その学生は2年生になっていた.学生は講義が面白くないという.そして,「高い授業料を払っているの だから,もっと上手く教えるべき」だと言った.私は,本当に驚いた.大学における勉学を高校や予備校の延長としてしか考えていないように思える.このよう な学生は,少なくとも私が学生の頃はいなかった.そういえば,最近,大学のことを「学校」と呼ぶ学生が多いと聞く.しかし,このような高校生の延長である ような大学生であっても,教員との交流のなかから自発的な勉学姿勢を持たせることは可能である.いやむしろそのような大学にしていかねば,明るい日本の未 来を展望することはできない.
昨年8月の政権交代からの事業仕分けで文科省関連の事業の多くが見直しの対象になった.その強引ともいえる見直しの決定に大学関係者から様々な 抗議や懸念が出されている.しかし,国の予算をどう有効に使うかを決めるのは,国民(正確には,国民の代表たる国会議員)である.今こそ,大学はいかにあ るべきかを国民に理解して貰う努力を積極的にしていくときではないだろうか. 21年間お世話になった九州大学の関係者に感謝の意を表すとともに,大学を去る最後の言葉としたい.
九州大学教養部に赴任したのは21年前のことであった.それまで私立大学に勤めていて授業中の学生の私語に悩まされていた私にとって,90 分の授業を集中して聞くことのできる学生の質の高さに驚くとともに感謝したものである.学生の理解力の確かさや勉学意欲の高さにもいたく感激した.教える ことの楽しさを知った.
大学1年生に対する講義で,講義中に「分からない」ことを見いだし,それを質問の形で提出させることを毎回の課題としたこともあった.それ ら一つ一つの質問に対する回答をA4版2枚にわたるプリントとして作り,一週間後の講義で毎回配布した.プリントを作るのにまる1日以上の時間が掛かった が,自分でも楽しく,また,学生には(1)講義を通して物事を考える習慣が身についた,(2)講義に集中できた,(3)毎回の回答書が楽しみだった,など おおむね好評であった.しかし,教養部が解体され,大学院重点化や大学法人化がなされていくなかで,講義のために多くの時間を割くことが出来なくなった.
私は,大学法人化をはじめとした一連の動きに恨みごとを言おうというのではない.むしろ逆に,私のした講義が学生にとって本当の意味で良い ものであったのかは,疑問であると考えている.大学における勉学は自発的になされるもので,学生の疑問に対して安易に答えてしまうことは学生をスポイルし ていることになるのかも知れない.学生が大学において自発的に勉学していくためには,最先端の研究をやっている優秀な教員と若さあふれる学生たちとのゆと りある交流が必要であると考える.しかし残念ながら,いまの大学にそのようなゆとりある交流の場がなくなっているように思われる.
もう一つ気になることがある.学生気質の変化である.六本松のあるスーパーで買い物しているときに1年次の講義で顔に覚えのある学生と出会 い,「その後,勉強はどう?面白い?」と聞いてみた.その学生は2年生になっていた.学生は講義が面白くないという.そして,「高い授業料を払っているの だから,もっと上手く教えるべき」だと言った.私は,本当に驚いた.大学における勉学を高校や予備校の延長としてしか考えていないように思える.このよう な学生は,少なくとも私が学生の頃はいなかった.そういえば,最近,大学のことを「学校」と呼ぶ学生が多いと聞く.しかし,このような高校生の延長である ような大学生であっても,教員との交流のなかから自発的な勉学姿勢を持たせることは可能である.いやむしろそのような大学にしていかねば,明るい日本の未 来を展望することはできない.
昨年8月の政権交代からの事業仕分けで文科省関連の事業の多くが見直しの対象になった.その強引ともいえる見直しの決定に大学関係者から様々な 抗議や懸念が出されている.しかし,国の予算をどう有効に使うかを決めるのは,国民(正確には,国民の代表たる国会議員)である.今こそ,大学はいかにあ るべきかを国民に理解して貰う努力を積極的にしていくときではないだろうか. 21年間お世話になった九州大学の関係者に感謝の意を表すとともに,大学を去る最後の言葉としたい.
(2010/01/28)
マレーシアへの旅(2)
(null)/(null)/(null) (null)
APCTCC-4の会議が行われるThe Legend Water Chaletsというホテルまで,会議の主催者であるH氏夫妻と一緒になり,クアラルンプール空港からタクシーをご一緒させて貰った.あらかじめタクシー券(クアラルンプールやポートディクソンまでは二千数百円程)を買い,それを運転手に渡せばそれでよい.マレーシアには,英国の植民地時代が長かったにも関わらず,基本的にチップの習慣がない.これには,大いに助かった.ホテルでベッドの横にチップを置き忘れることを心配する必要もないし,また,食事のたびにチップの額を何パーセントにするかの計算に悩むこともない.英国の植民地統治の名残は,車の右側通行である.日本や英国と同様にタクシーは道路の右側を走ってホテルまで突っ走った.空港から小一時間でホテルに着いた.あまりに嬉しかったので運転手に10RM(約二百数十円)をチップとして渡した.マレーシア滞在中チップを出したのはこの時一回のみである.
英国の植民地統治の名残は車の右側通行だけではない.様々な分野にわたっているのであろうが,旅行者でもすぐ分かるのは文字である.英語そのものの表記が使われている場合もあるが,例えば,komputer, kamera, kampusなどの明らかにミス・スペルの英語風看板が見えるので違和感を持っていたが,あまりにもその数が多いので,ある瞬間にこれはマレーシア語であると悟った.ウィキペディアで調べて見ると,以前はアラビア文字を元に作られたジャウィ文字が作られていたが,英国の植民地時代以来,マレーシア語は26文字のローマン・アルファベットで表記されるようになったとある.外来語は,英語の表記に似ているが少しずつスペルが違うのが面白い.クアラルンプール中心駅をKL Sentralと表記したり,博物館をmuzium,レストランをrestoran,バスをbasとしたりしたものがマレーシア語である.こう見ると発音をほとんどそのままローマ字つづりで表記したもので,マレーシア語の文字はわれわれ日本人にもすとんと分かり易い文字と言えそうだ.
マレーシアは,英国の植民地になる以前には,ポルトガルやオランダにも占領されていた.しかし,日本も1942年から1945年までの間,シンガポールを含めてマレー半島を占領していたということをわれわれ日本人は決して忘れてはならない.もちろんこれは,日本の資源確保のための占領であった.太平洋戦争が,ハワイの真珠湾を攻撃する1時間20分前(日本時間1941年12月8日午前1時30分)にマレー半島北部のコタバルへの強襲上陸をもって開始されたことも記憶しておきたい.それを期に南下を続け70日間でシンガポールを陥落させた.この間にシンガポール華僑虐殺事件も起きた.日本政府はこの件に関してシンガポール政府に対して公式な謝罪をしていないことも忘れてはならない[注1].このような歴史的事実に対して無頓着な日本人は,アジアの人々から決して信頼されることはないだろうと,今回の旅行で改めて考えた.
英国の植民地統治の名残は車の右側通行だけではない.様々な分野にわたっているのであろうが,旅行者でもすぐ分かるのは文字である.英語そのものの表記が使われている場合もあるが,例えば,komputer, kamera, kampusなどの明らかにミス・スペルの英語風看板が見えるので違和感を持っていたが,あまりにもその数が多いので,ある瞬間にこれはマレーシア語であると悟った.ウィキペディアで調べて見ると,以前はアラビア文字を元に作られたジャウィ文字が作られていたが,英国の植民地時代以来,マレーシア語は26文字のローマン・アルファベットで表記されるようになったとある.外来語は,英語の表記に似ているが少しずつスペルが違うのが面白い.クアラルンプール中心駅をKL Sentralと表記したり,博物館をmuzium,レストランをrestoran,バスをbasとしたりしたものがマレーシア語である.こう見ると発音をほとんどそのままローマ字つづりで表記したもので,マレーシア語の文字はわれわれ日本人にもすとんと分かり易い文字と言えそうだ.
マレーシアは,英国の植民地になる以前には,ポルトガルやオランダにも占領されていた.しかし,日本も1942年から1945年までの間,シンガポールを含めてマレー半島を占領していたということをわれわれ日本人は決して忘れてはならない.もちろんこれは,日本の資源確保のための占領であった.太平洋戦争が,ハワイの真珠湾を攻撃する1時間20分前(日本時間1941年12月8日午前1時30分)にマレー半島北部のコタバルへの強襲上陸をもって開始されたことも記憶しておきたい.それを期に南下を続け70日間でシンガポールを陥落させた.この間にシンガポール華僑虐殺事件も起きた.日本政府はこの件に関してシンガポール政府に対して公式な謝罪をしていないことも忘れてはならない[注1].このような歴史的事実に対して無頓着な日本人は,アジアの人々から決して信頼されることはないだろうと,今回の旅行で改めて考えた.
(E.M.)
(2010/01/14)
[注1] 1966年にシンガポール政府へ5000万米ドルの賠償金は支払っている.
マレーシアへの旅(1)
(null)/(null)/(null) (null)
昨年(2009年)の年の瀬にマレーシアを初めて訪れる機会を持った.量子化学のアジア地域における国際会議(The fourth Asian Pacific Conference of Theoretical and Computational Chemistry, APCTCC-4)がクアラルンプールから数十キロほど南のポートディクソンという保養地であり,それに参加するのが目的であった.
マレーシアは,北緯1度〜6度の範囲にあり熱帯に属する.日本の都市の月別最高気温のグラフは,7,8月にピークをもつ山型になるが,旅行書によるとマレーシアの首都クアラルンプールの気温は,ほぼフラットである.もちろん,その気温は東京の7,8月の気温より高い.日本に寒波が襲ってきた12月19日に,現地で着るものとしては半袖のみを持って,手荷物1つで成田を出発した.時差は日本と1時間しかない.成田を11時5分に出発してクアラルンプール空港に18時過ぎに到着した.ほぼ8時間のフライトである.
暑さを覚悟したが,夕方ということもありそれほどでもない.ホテルについて食事を取ったあと,水上の部屋で休んだが,冷房が効き過ぎて寒い.22度Cに設定されている.しかし,リモコンのコントロールが効かない.仕方なく少し着込んで寝た.翌日,リモコンを直して貰い,設定温度を27度Cに設定して快適に過ごすことができるようになった.低い湿度のせいか冷房なしでも過ごせる.それでも会議の会場は,やはり冷房の効き過ぎで(冷房の設定温度の基準が22度Cになっているようだ),日本を出発するときに着ていたセーターを着込んで寒さを防いだ.マレーシアの観光では長袖やサマーセーターなど寒さ対策は必携である.
晩餐会の様々な料理のメニューリストの最後にchinese teaとあった.マレーシアはイスラム圏であり,一般に,飲酒は禁止されている.しかし,これは国際会議の晩餐会なのでアルコール無しということはないよねと隣と語り合っていた.しかし,これが甘かった.最後まで飲み物は中国茶とサイダー類のみであった.このように,中国茶をがぶがぶ飲みながらのアルコール無しの晩餐会を経験することができた.日本ではなかなか味わえない大変貴重な経験であった.
国際会議が終わった日の昼過ぎに,ポートディクソンからさらに数十キロ南にある世界遺産都市マラッカを観光したが,その途中にスコールにあった(写真参照).
そこで一句:マラッカをスコール駆けぬけ年の暮れ
マレーシアは,北緯1度〜6度の範囲にあり熱帯に属する.日本の都市の月別最高気温のグラフは,7,8月にピークをもつ山型になるが,旅行書によるとマレーシアの首都クアラルンプールの気温は,ほぼフラットである.もちろん,その気温は東京の7,8月の気温より高い.日本に寒波が襲ってきた12月19日に,現地で着るものとしては半袖のみを持って,手荷物1つで成田を出発した.時差は日本と1時間しかない.成田を11時5分に出発してクアラルンプール空港に18時過ぎに到着した.ほぼ8時間のフライトである.
暑さを覚悟したが,夕方ということもありそれほどでもない.ホテルについて食事を取ったあと,水上の部屋で休んだが,冷房が効き過ぎて寒い.22度Cに設定されている.しかし,リモコンのコントロールが効かない.仕方なく少し着込んで寝た.翌日,リモコンを直して貰い,設定温度を27度Cに設定して快適に過ごすことができるようになった.低い湿度のせいか冷房なしでも過ごせる.それでも会議の会場は,やはり冷房の効き過ぎで(冷房の設定温度の基準が22度Cになっているようだ),日本を出発するときに着ていたセーターを着込んで寒さを防いだ.マレーシアの観光では長袖やサマーセーターなど寒さ対策は必携である.
晩餐会の様々な料理のメニューリストの最後にchinese teaとあった.マレーシアはイスラム圏であり,一般に,飲酒は禁止されている.しかし,これは国際会議の晩餐会なのでアルコール無しということはないよねと隣と語り合っていた.しかし,これが甘かった.最後まで飲み物は中国茶とサイダー類のみであった.このように,中国茶をがぶがぶ飲みながらのアルコール無しの晩餐会を経験することができた.日本ではなかなか味わえない大変貴重な経験であった.
国際会議が終わった日の昼過ぎに,ポートディクソンからさらに数十キロ南にある世界遺産都市マラッカを観光したが,その途中にスコールにあった(写真参照).
そこで一句:マラッカをスコール駆けぬけ年の暮れ
(E.M.)
(2010/01/14)