石原慎太郎の「天罰」発言について

 石原慎太郎が今回の東北地方太平洋沖地震および津波による大災害を「人間の我欲に対する天罰」であると発言した.翌日の記者会見で発言を撤回したというが,しかし,「天罰」発言は彼の本音だと思う.

 東北地方の海岸沿いの町でつましく暮らしていた人々は,大津波によって何もかも失い,それでも互いに励まし合い避難所で暮らしている.その生活が連日テレビの映像で放映されている.被災者のそのような映像からうかがえる心情を想えば「天罰」などという言葉は出て来ない.石原慎太郎の「天罰」発言は,この人物の想像力のなさを端的に示している.同じようなことが,数十年前にあった.同氏は,ベトナム戦争時,南ベトナム政府軍陣地を訪れ,解放戦線や解放区の住民に向けた大砲の引き金を引くよう副官にすすめられたという.そのとき,石川文洋カメラマンの必死の制止がなければ,引き金を引いたかも知れないと石川氏の『ベトナム最前線』というルポルタージュの序文において,同氏は無邪気に書いている.大砲の引き金を引くことで解放区の住民の何名かあるいは何十名か死ぬかも知れないことを想像できないのであろうか.想像力のない人物ということである.想像力があり思慮深い人は,大砲の引き金を引くということが決して出来ないものと思う.

 また,「天罰」発言は,同氏の非科学的な態度をも物語っている.もし,この発言が江戸時代や明治時代に生きていた人が言ったのなら,それほど違和感はないかも知れない.しかし,いまは地震の起きるメカニズムは解明されている.今回の地震は,プレートの沈み込みによる歪みのエネルギーが一定の時間間隔で解放されて起こるもので,1000年に一度という極めて巨大なものであった.「天」が東北の人々に「罰」を与えるために地震・津波を起こすはずもない.普通の人なら,自然現象を「天罰」であるなどと言うことは,恥ずかしくて口に出すことは出来ない.

 仮に,「天罰」発言が地震のメカニズムが解っていなかった時代の発言であったとして,「我欲に対する天罰」であるなら天罰が下るのは「我欲」に駆られて,日本の政治を自分たちの儲ける方向に動かしている連中であるはずである.それは大企業を中心とした財界に身を置く連中であろう.東北地方でつましく暮らしている人々は何の関係もない.石原氏自身は,むしろ「我欲」で政治を動かしている連中の側に身を置く人物であると思う.「天罰」の下る先が違っている.その点で彼の論理が成り立っていない.それだけでなく自らに「天罰」が下るのかも知れないということに思いが及んでいないように思う.「天罰」発言は,見当外れで論理性に欠け,さらに自分自身の位置が解っていないと断定せざるを得ない.

 想像力がなく,非科学的そして論理性に欠けるということは,まとめれば『軽薄』ということである.本多勝一氏によれば,石原氏は「『ウソつき』と『卑劣な小心者』とをこねて団子にしたような男」ということである.今回の発言を契機に,この石原評にこの『軽薄』を加えて「『軽薄』と『ウソつき』と『卑劣な小心者』とをこねて団子にしたような男」という石原評を決定版としたい.このような男を東京都民はまた知事に選ぶのであろうか.

(23/03/2011, EM)