参院選の夏を前に
深山 圭樹(ふかやま・よしき) /(2013.06.05)
(1)安倍晋三首相のジレンマ
「じゃ いつやるの」
「今でしょう!」
この流行語を最も真剣にそして深刻にうけとめている日本人はたぶん安倍晋三氏だろう。2度目の政権が回ってくるとは思ってもなかったはずだ。1度目の無様な退陣を振り返れば当然だ。しかし、さまざまな偶然的要因が重なり、ないはずの2度目のチャンスがやってきたのだ。それも自民党は前回(2009年)の「大敗」よりもさらに少ない得票で「大勝」したのだ。(民主党はごめんだとの雰囲気つまり自民からすれば「敵失」と小選挙区制という「制度」のなせる業による)
*自民党は小選挙区では165万票減らし43%の得票しかないのに、議席率では実に79%に及ぶ237議席を獲得した。比例区でも前回より219万票も減らしたが、議席は微増している。
「天は私に使命を果たせといっている」と安倍氏には閃いたことだろう。1度目の失敗から教訓をひきだし、慎重に「安全運転」でことを進めはじめたのであるが、内閣発足から100日を過ぎたあたりから、思いのほか好調なすべりだしに緊張の糸が切れかかってきた。いうならば「地が出始めた」のである。それは安倍晋三氏個人の判断もあるが、基本的には置かれている政治的位置から規定されている面が大きいのである。
7月の参院選までは「猫をかぶる」ことが至上命令なのだが、あまりに保守・良識派に近いような行動では保守・反動派から期待外れとして強い批判が出てくるし、本来は安倍氏に近い維新などの党外の反動派に主導権を奪われかねないのだ。「猫をかぶる」ことをしながら党内外の反動派を引き付けておかねばならない。
経済の分野では、何もやっていないのに「アベノミクス」ということばが、「上向きに展開」しそうな雰囲気を醸し出すことに成功していること、内閣支持率もことのほか高水準をキープしていること、そしてありがたいことに、朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)が、「米韓軍事演習」などに対応して「瀬戸際政策」で激烈な「言葉の戦争」を行い国民の不安といらだちが高まったことなどが、安倍氏を勇気づけた。
*北朝鮮の政策は支持できないが、1950年代からアメリカの核兵器によってその国家の生存自体を脅かされ続けてきた同国が、フセインやカダフィなどの敗北の経験から「核保有国」として承認してもらい、アメリカと直接交渉で「国家としての生存」を図りたいとする立場は、核廃絶が実現していない現状とアメリカのダブル・スタンダードを考えた場合、まったく理解できないわけではない。「米韓軍事演習」についても、日本のマスコミなどはその「防衛的」側面は自明のこととしているが、1994年にはアメリカの北朝鮮への「攻撃」(作戦計画5027)が発動寸前までいった経験を持っている(しかもそれは撤回されずに現在も更新中となる)と「演習」といっても額面どおりには受けとれまい。それは例えば、東京湾沖の数10キロの場所で、「中・露・朝の合同軍事演習」がもしも行われるような事態を想像してみると、「仮想敵国」とされた側の「脅威」の感じ方がどれほど大きく違うものが分かるはずだ。
安倍首相はこれまでの「安全運転」からギアを切り替えた。4月23日の参院予算委員会で、改憲の発議要件を定めた96条について「参院選で堂々と掲げて戦う」と宣言した。そして参院選後に改憲勢力の結集を呼びかけた。
(2)96条改憲提起の波紋
安倍首相のギア・チェンジには自民党内部からも懸念の声があがってきた。公明党への配慮、中国や韓国との関係への影響などを総合的に勘案して慎重にということである。改憲慎重派だけでなく、改憲派の中からも、9条改憲に賛成する「国防族」のリーダーである山崎拓氏も、96条改憲から入ることに反対の声をあげている。改憲を説く小林節慶応大教授は「裏口入学」と批判した。改憲派にとっても96条先行改憲に違和感がある理由は後ほどふれたい。
国会による憲法改定の発議要件の緩和を憲法改定の「突破口」と押し出したことが、逆に9条改定の是非をこえて、多くの批判をひろげる結果となってしまった。
そもそも、今国会は、いわゆる「0増5減」の不十分な改定さえ行っていない「違憲」の定数で実施された「違憲」選挙でえらばれた衆議院議員で構成されているので「正当性」に疑問ありだ。そのような国会が改憲などとんでもないという声もある。すくなくとも「謹慎中」というくらいの姿勢は必要なのではなかろうか。(司法もナメられたものだが、最高裁はどうする?)
安倍内閣を支える自民党は、かつての自民党とは大きく異なる。これまでの自民党政治を担ったベテラン議員の多くは2009年に落選するか引退して選挙区を子や秘書に譲った。現在自民党所属の国会議員は400名近いが、その3分の1ほどは新人議員である。2009年の「政権交代」当時の民主党とあまり変わらない状態だ。安倍首相が「暴走」できる背景でもある。
(3)自民党改憲草案の「新しさ」
自民党の改憲草案については、さまざまな批判がすでになされている。ここでは各条文についての議論はしないが、気になることがある。護憲派論客の多くはこの草案のあまりにも時代逆行ぶりを批判している。確かに「復古」調が目立っている。しかし、「復古」的側面だけに目を奪われていると、安倍首相たちが改憲で何をやりたいのかを見落とすことにならないのかという心配である。
改憲案がまず96条の改定に狙いを定めたのは、たんに改憲の「ハードル」を低くするというだけでない「本音」が隠されているのではないか。つまり、「国のあるべきかたち」を憲法で長期にわたって定めること自体に反対だということであろう。「国のあるべきかたち」は、そのつど統治者の都合や国際情勢、市場の変動にあわせてどんどん変えられるようにすべきだと考えているのである。このような立場は、これまでの憲法観(立憲主義や硬性憲法)とは完全に異なり「新しい」ものである。
では、どのような勢力がこのような考え方をもちこもうとしているのか。グローバル資本主義の推進者であり、そこから利益を得ている者たちである。内田樹氏は次のように指摘する。
「グローバリストたちにとって、市場への最適化を阻む最大の障害は『国民を守る』ために設計された諸制度です。医療、教育、福祉、司法、そういったものは市場の変化に対応しません。だから、邪魔で仕方がない。その惰性的な諸制度を代表するのが憲法なのです。・・・・安倍自民党も野田民主党もグローバリスト政権という点では選ぶところがありません。たぶん無意識にでしょうけれど、彼らが目指しているのは『国民国家の解体』なのです。」(「内田樹の研究室」blog、憲法記念日のインタビュー)
「改憲を『旗艦』とする自民党政策のねらいは社会の『機動化』(Mobilization)である。・・・改憲の目標は『強い日本人』たちのそのつどの要請に従って即時に改変できるような『可塑的で流動的な国家システム』の構築である。(同blog,改憲案の「新しさ」)
先に改憲派であっても安倍改憲には反対している例を紹介したがその違和感の理由はここらにあったのではないだろうか。そして、内田氏はそのような動きを下から支えている運動の心理的基礎について注目して次のように述べる。
「安倍自民党のグロ-バリスト的な改憲案によって、基本的人権においても、社会福祉においても、雇用の安定の点でも、あきらかに不利を蒙るはずの労働者階層のうちに改憲の熱心な支持者がいる理由もそこから理解できる。とりあえずこの改憲案は『何一つ安定したものがなく、あらゆる価値が乱高下し、システムがめまぐるしく変化する社会』の到来を約束しているからである。自分たちがさらに階層下降するリスクを代償にしても、他人が没落するスペクタクルを眺める権利を手に入れたいと願う人々の陰惨な欲望に改憲運動は心理的な基礎を置いている。」(同、改憲案の「新しさ」)
「復古の幻想」をふりまきながら、新自由主義的政策を推進する。そして、多国籍企業化した「日本企業」と日米のエリート人脈がからみあった支配層を形成し、統治するのである。これこそ「安保国体論」の内容そのものである。
(4)若者との議論
今日、それなりに本を読んでいると思われる学生に尋ねてみると驚くほど「改憲」賛成が多い。「原発安全神話」はともかくとして、「改憲神話」はムードとして至る所にある。
9条の存在は、中国・韓国・北朝鮮などに強くあたれない原因であり、アルジェリアの人質事件では、被害者たちを救出できなかった理由だと考えられている。9条が「改正」されさえすれば、日本をとりまく国際紛争はあらかた片づくのではないかと信じている。国防軍も自衛隊の名前が変わっただけで、あってもいいのではないか。徴兵制など今日敷かれるはずはないから、9条改憲は「自分とは関係ない」と受け流されている。
*国防軍をもった「戦争できる国」が本当に国際社会から今より尊敬されるようになるのか。
*中国や韓国や北朝鮮などがどのように9条改憲に対応するのだろうか。
*アメリカはどのような対応をするのだろうか。
*9条を生かした外交はありえないのか(戦後史の中ではどうであったのか検証は?)
*9条改憲はアジアにどのような反応を起こすだろうか。
以上のこと(ほんの1例にすぎないが)などを具体的に想像しながら若者と話さないと、彼らはムードで改憲支持なのである。また、新自由主義的な思考にもどっぷりとなじまされている。
(5)参院選にどうとりくむのか
7月の参院選は戦後政治史のうえで画期になる可能性を秘めていると思う。画期には、悪い方向と良い方向への2つがあるだろう。悪い方向は「改憲」へ道を拓き、結局は「新しいファシズム」へと進むことである。もし、良い方向がありうるとすれば、この「改憲」提起という「危機」を反「改憲」勢力の結集の契機として活かすことに成功した場合であろう。
安倍改憲路線にどう対抗するかを考えた場合、短期には選挙をどう戦うのかということと、さらに中・長期にどうするのかがある。選挙では現在の制度のもとでは劇的な変化をもとめることはできないだろう。しかし、選挙戦において言うべきことはきちんと主張することによりあとの展開に影響がでてくるのだ。議論する絶好の機会とらえてそれぞれ話し込みたい。
「アベノミクス」の暴走、無謀な原発推進・原発輸出、アメリカいいなりの政治、憲法改定の策動、過去の侵略戦争の美化など話の内容には事欠かない。それを自分の言葉でどのように語るかが、人を説得できるかどうかの分かれ道だろう。
闘いの必要性の強調だけではひとは立ち上がらない、闘うにはロマンが必要である。1930年代ファシズムの進出に抗したヨーロッパの人民戦線運動には、ある種の輝きとロマンがあった。私が注目したのは、志位和夫さんの次のことばであった。
「私たちの未来社会の一番のキーワードは、『人間の自由、人間の解放』であります。それはまた、自由と民主主義の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてを、受けつぎ、いつそう発展させることを特質としています。『社会主義』の名によって人権と民主主義を抑圧し、特定の政党や世界観に特権的地位を与えることは、日本における社会主義の道とは無縁であり、きびしくしりぞけるというのが、わが党の確固たる立場であります。」(志位委員長の幹部会報告、しんぶん赤旗,13年5月9日)
特に後半部部分は、世界共産主義運動の信用を失墜させ、崩壊にみちびいた原因だっただけに、ここまで認識するのにどのくらいの時間と犠牲を払ったのかを顧みるとき感慨深いものがある。(これに関しては、現在『前衛』連載中の不破哲三「スターリン秘史――巨悪の成立と展開」が参考になる。)
ともかく、私が安倍改憲に反対するのは、「人間の自由、人間の解放」という理想があるからである。日独伊のなかで唯一、戦前のファシズムを肯定する政治的リーダーの政権掌握をそのままにしておくことは、歴史への責任として許されない。
(2013.06.05)