ケンブリッジ大学と学生研修
(null)/(null)/(null) (null)
私は1999年以来、九大生を年に数十人ずつ、ケンブリッジ大学ペンブロークカレッジで実施される夏期講座へ毎年引率している。これは、ケンブリッジ大学全体が実施している様々な専門科目ごとのサマースクールとは異なり、ひとつのカレッジが、参加グループ毎にカスタマイズしたプログラムを責任運営するものである。自分で言うのもおかしいが、その意義について、ケンブリッジ大学の場所柄等も交えながら、何回にわたるかわからないが、簡単に綴ってみたい。本格的にはいつか詳細に書籍にまとめたいと思っている。また第1回は総体的予告的な話に留めたい。
まずこの研修の始まりであるが、ケンブリッジ大学ペンブロークカレッジで1年間研究した廣田稔九大名誉教授(英文学)が、そのアカデミックな雰囲気に感銘し、九大生がここで学ぶ機会を得たいと考え、同カレッジとの交渉の末に、1996年夏から始まった。当時は日本大学とカリフォルニア大学だけが夏休みを利用して研修していたが、日本の大学としては2番目に夏期講座を開始したことになる。現在ペンブロークカレッジでは、明治、早稲田も夏期講座に参加しているが(春には成蹊も来ている)、国立大学としては我々だけである。但し、他の大学は大学として学生を送り込んできているが、我々は、現在筆者個人とペンブロークカレッジとの契約に基づいて実施している。筆者は廣田名誉教授の後継世話役として、1999年から引率者になり、同名誉教授が九大を辞した後は、筆者が全面的に企画・運営している。
実は、九大生の場合、筆者の個人契約に基づいて実施されていることが、かえっていい結果をもたらしている。前年11月までに参加人数についての内諾を得ることになっているため、募集・選抜をそれまでに終わらせなければならないので、12月から翌年夏まで時間がある。これを利用して事前研修をする余裕があるのだ。そのかわり1年生は参加できない。他の大学の場合は、入学後に応募すれば、すぐその夏に1年生でも参加できるかわりに、長期の事前研修を構える時間的余裕はないようだ。
この研修は英語及び学術専門科目を中心としており、9ヶ月にわたる事前研修部分では、英語の学習をはじめ、英国の歴史を学び、参加者毎にテーマを選んでもらっての調査発表など、英国訪問をより意義のあるものにするために、しっかりと勉強してもらう。また、現地研修中の週末は自由旅行とし、それをグループごとに自力で準備してもらう。旅行業者に丸投げすることなく、すべて自分たちで情報を集め、どういうコースとするかの合意形成を図り、交通や宿泊の手配も直接自力でしてもらう。こうして、ありがたいことに、1年生が応募して2,3ヶ月後に現地へ行く場合には恐らく難しいであろう周到な準備ができる。こうした準備が現地研修を充実させ、また九大生の参加グループが団結を強め、帰国した参加者に「生涯随一の体験」「志の高い仲間との1ヶ月は素晴らしかった」「この研修はそれだけで九大に来てよかったと思わせるものだった」と言わしめる。毎年充実のほとばしりの絶頂に帰国の日を迎えて、男泣き女泣きに現地スタッフと抱き合う姿に、筆者はこの研修に生涯をかける覚悟を一層深めるのだった。
この研修のアピールポイントはいろいろある。いずれも学生にとって、多数の偉人を輩出した世界トップレベルの大学で良質の勉学体験ができることの刺激とつながっている。過去の参加者には、交換留学、東大大学院、MIT博士課程への進学等、輝かしい活躍が見られ、国際的活躍の登竜門的役割を果たしていることを誇りに思う。今後、ケンブリッジ大学の独自の教育システム、その学問の砦としての雰囲気、そこで勉強する幸福感、研修で実施される授業やイベント、事前研修の運営、食事やパブ、様々な裏話、等々を綴っていきたいと思っている。毎回考え考え書くので、通読してうまくつながるものになる自信はない。それどころか、英国各所を訪問した記録なども綴り始めたら連載100回でも終わらないなあなどと考え、頭が爆発しそうである。
↑ケンブリッジ大学ペンブロークカレッジ図書館
まずこの研修の始まりであるが、ケンブリッジ大学ペンブロークカレッジで1年間研究した廣田稔九大名誉教授(英文学)が、そのアカデミックな雰囲気に感銘し、九大生がここで学ぶ機会を得たいと考え、同カレッジとの交渉の末に、1996年夏から始まった。当時は日本大学とカリフォルニア大学だけが夏休みを利用して研修していたが、日本の大学としては2番目に夏期講座を開始したことになる。現在ペンブロークカレッジでは、明治、早稲田も夏期講座に参加しているが(春には成蹊も来ている)、国立大学としては我々だけである。但し、他の大学は大学として学生を送り込んできているが、我々は、現在筆者個人とペンブロークカレッジとの契約に基づいて実施している。筆者は廣田名誉教授の後継世話役として、1999年から引率者になり、同名誉教授が九大を辞した後は、筆者が全面的に企画・運営している。
実は、九大生の場合、筆者の個人契約に基づいて実施されていることが、かえっていい結果をもたらしている。前年11月までに参加人数についての内諾を得ることになっているため、募集・選抜をそれまでに終わらせなければならないので、12月から翌年夏まで時間がある。これを利用して事前研修をする余裕があるのだ。そのかわり1年生は参加できない。他の大学の場合は、入学後に応募すれば、すぐその夏に1年生でも参加できるかわりに、長期の事前研修を構える時間的余裕はないようだ。
この研修は英語及び学術専門科目を中心としており、9ヶ月にわたる事前研修部分では、英語の学習をはじめ、英国の歴史を学び、参加者毎にテーマを選んでもらっての調査発表など、英国訪問をより意義のあるものにするために、しっかりと勉強してもらう。また、現地研修中の週末は自由旅行とし、それをグループごとに自力で準備してもらう。旅行業者に丸投げすることなく、すべて自分たちで情報を集め、どういうコースとするかの合意形成を図り、交通や宿泊の手配も直接自力でしてもらう。こうして、ありがたいことに、1年生が応募して2,3ヶ月後に現地へ行く場合には恐らく難しいであろう周到な準備ができる。こうした準備が現地研修を充実させ、また九大生の参加グループが団結を強め、帰国した参加者に「生涯随一の体験」「志の高い仲間との1ヶ月は素晴らしかった」「この研修はそれだけで九大に来てよかったと思わせるものだった」と言わしめる。毎年充実のほとばしりの絶頂に帰国の日を迎えて、男泣き女泣きに現地スタッフと抱き合う姿に、筆者はこの研修に生涯をかける覚悟を一層深めるのだった。
この研修のアピールポイントはいろいろある。いずれも学生にとって、多数の偉人を輩出した世界トップレベルの大学で良質の勉学体験ができることの刺激とつながっている。過去の参加者には、交換留学、東大大学院、MIT博士課程への進学等、輝かしい活躍が見られ、国際的活躍の登竜門的役割を果たしていることを誇りに思う。今後、ケンブリッジ大学の独自の教育システム、その学問の砦としての雰囲気、そこで勉強する幸福感、研修で実施される授業やイベント、事前研修の運営、食事やパブ、様々な裏話、等々を綴っていきたいと思っている。毎回考え考え書くので、通読してうまくつながるものになる自信はない。それどころか、英国各所を訪問した記録なども綴り始めたら連載100回でも終わらないなあなどと考え、頭が爆発しそうである。
↑ケンブリッジ大学ペンブロークカレッジ図書館
鈴木右文
(2010/09/30)
美術館めぐり(その6)
(null)/(null)/(null) (null)
6.オルセー美術館
ルーブル美術館の館内で軽く昼食を取って外に出ると午後2時を過ぎていた.昼食前にはかなり疲れていたが,食事を取ったことで少し元気が出てきた.セーヌ川を渡ったすぐのところにオルセー美術館(写真25)があり,その閉館までにまだ4時間ほどある.一つの美術館を鑑賞するに十分な時間なのでオルセー美術館にも入館することにした.
写真25 セーヌ川の対岸から望むオルセー美術館
オルセー美術館は,もとは駅の建物であったものをほぼそのままの形で利用した美術館である.基本的には,1848年から1914年までの作品が収集されている.1848年はルーブル美術館との境界であり,1914年は国立近代美術館との境界になっている.このように3つの時代区分の美術品を,ルーブル美術館,オルセー美術館,国立近代美術館で大別・分担して展示している.オルセー美術館では印象派を中心としてバルビゾン派やクールベ,またアングルやドラクロワの絵が展示されている.印象派ではマネ,モネ,ルノワール,ドガ,シスレー,ピサロ,ゴーギャン,ゴッホなど有名な絵が豪華に並んでいるという.
セーヌ川を渡り,セーヌ川沿いの道路を西に歩いてオルセー美術館へ向かった.セーヌ川沿いの歩道には古本や骨董などの露天が並んでいる.それらを見ながら進んだ.オルセー美術館の西側の入り口広場に行って驚いた.長い列が出来ており,この列が少しも動かない.列には2,3百名はいるようだ.入場券を購入するための列のようである.よく見るとミュージアムパスのようなものを手に持った人が,南の方の入り口に向かっている.われわれもその人について行くとそこには数名が並んでいるだけである.荷物検査を受け,2,3分で中に入ることができた.ミュージアムパスの威力は絶大である.
オルセー美術館の展示物ははじめて見るもの多く,作品群の実力は素晴らしい.特に,ドガの作品群は豊富である.踊り子などの動きのある絵だけでなく,家族の肖像や風景画まで展示されている.しかし,ここでは写真撮影は禁止されていて,はじめて見た印象を自分で取った写真で再確認することができず,印象が薄れていくばかりである.絵そのものでなく絵の説明書きを携帯電話のカメラで収めようとしていた人が,係員に厳しく注意されていた.また,絵の配列の仕方にも統一性が感じられない.特に,ドガの絵は数えたわけではないが40枚前後はあった絵が,ある作品群はひとかたまりに,また,別の作品群は別の部屋に,それから,個人から寄贈されたものはまた別の部屋にという形で展示されており,はじめての訪問者には分かり難い配置になっていた.作家別に展示するなら制作年順に並べるとか,絵画のさまざまな主張の流れの中で個々の作品を大きく位置づけて配置するとか,もう少し工夫の仕方があり得ると思った.オルセー美術館の名誉のために,次のことを行っておくほうが公平であろう.われわれの当日の鑑賞経路が,美術館の意図した経路とは違っていたということである.そのことを,いまこの文章を書いているときにオルセー美術館の案内リーフレットを見て気付いた.しかし,訪問した一ヶ月後に,鑑賞経路が違っていたということを訪問者が気付く.その責任が訪問者のみにあるというのは,少し酷であろう.
この美術館で印象に残ったものを3点あげるとすれば,アングルの「泉」,ドガの「家族の肖像」,ゴッホの「自画像」である.昔から教科書などで見ていたアングルの「泉」はやはり美しい(写真26).
写真26 アングル「泉」
(http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Source.htmlより)
帰国後,そのことを友人に話したら,彼はお腹が出ているという.そういわれてよく見ると確かにお腹が出ているようだ.アングルは,ミロのヴィーナスをイメージしてこの絵を描いたというようなことをどこかで読んだことがある.ミロのヴィーナスのお腹はこれほど出ていないように思う.具体的にモデルがいたのであろうか.少し出たお腹を意識しながら鑑賞し直すと,美しさも半減するような気もする.してみると,はじめに「やはり美しい」と思ったのはどこを観ての評価だったのか.家内に聞いてみたら,お腹の出っ張りはあまり気にならなかったという.この程度は普通なのかも知れない.人によって見るところが異なるのが面白い.この程度のお腹の出っ張りは美の範疇に入るのだということで,納得するのが穏やかであろう.美術書によれば,この「泉」の作成年は1856年であるが,この絵の構想は1820年からという.完成したときのアングルの年齢は76歳前後である.
ドガの「家族の肖像」ははじめて見た絵であるが,ドガの達者ぶりを醸し出している.ドガがフィレンツェの叔父の家に滞在していたときに書いたものという.ゴッホの「自画像」(写真27)は,差し迫る狂気の縁に留まっている鬼気迫る迫力がある.じっと見ているとこちらが狂いそうな危うい気持ちになる不思議な絵である.この絵の前で,この「自画像」の目線と同じように鋭い目つきでこの絵を凝視している青年がいた.
写真27 ゴッホ「自画像」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/自画像_(ゴッホ)より)
オルセー美術館をひと通り見終わって出てきたら五時を過ぎていた.セーヌ川を渡り,チュイルリー公園をぬけ,サン・トノレ通りを散歩しているとうなぎ屋やラーメン店などを何軒か見つけた.そのうちの一軒が「サッポロ・ラーメン」とカタカナの看板が掲げてあり,日本食が恋しいというわけでもなかったが,何か嬉しくなってついつい入ってしまった.ラーメン,餃子,ビールを注文して,本日の夕食とした.
ルーブル美術館の館内で軽く昼食を取って外に出ると午後2時を過ぎていた.昼食前にはかなり疲れていたが,食事を取ったことで少し元気が出てきた.セーヌ川を渡ったすぐのところにオルセー美術館(写真25)があり,その閉館までにまだ4時間ほどある.一つの美術館を鑑賞するに十分な時間なのでオルセー美術館にも入館することにした.
写真25 セーヌ川の対岸から望むオルセー美術館
オルセー美術館は,もとは駅の建物であったものをほぼそのままの形で利用した美術館である.基本的には,1848年から1914年までの作品が収集されている.1848年はルーブル美術館との境界であり,1914年は国立近代美術館との境界になっている.このように3つの時代区分の美術品を,ルーブル美術館,オルセー美術館,国立近代美術館で大別・分担して展示している.オルセー美術館では印象派を中心としてバルビゾン派やクールベ,またアングルやドラクロワの絵が展示されている.印象派ではマネ,モネ,ルノワール,ドガ,シスレー,ピサロ,ゴーギャン,ゴッホなど有名な絵が豪華に並んでいるという.
セーヌ川を渡り,セーヌ川沿いの道路を西に歩いてオルセー美術館へ向かった.セーヌ川沿いの歩道には古本や骨董などの露天が並んでいる.それらを見ながら進んだ.オルセー美術館の西側の入り口広場に行って驚いた.長い列が出来ており,この列が少しも動かない.列には2,3百名はいるようだ.入場券を購入するための列のようである.よく見るとミュージアムパスのようなものを手に持った人が,南の方の入り口に向かっている.われわれもその人について行くとそこには数名が並んでいるだけである.荷物検査を受け,2,3分で中に入ることができた.ミュージアムパスの威力は絶大である.
オルセー美術館の展示物ははじめて見るもの多く,作品群の実力は素晴らしい.特に,ドガの作品群は豊富である.踊り子などの動きのある絵だけでなく,家族の肖像や風景画まで展示されている.しかし,ここでは写真撮影は禁止されていて,はじめて見た印象を自分で取った写真で再確認することができず,印象が薄れていくばかりである.絵そのものでなく絵の説明書きを携帯電話のカメラで収めようとしていた人が,係員に厳しく注意されていた.また,絵の配列の仕方にも統一性が感じられない.特に,ドガの絵は数えたわけではないが40枚前後はあった絵が,ある作品群はひとかたまりに,また,別の作品群は別の部屋に,それから,個人から寄贈されたものはまた別の部屋にという形で展示されており,はじめての訪問者には分かり難い配置になっていた.作家別に展示するなら制作年順に並べるとか,絵画のさまざまな主張の流れの中で個々の作品を大きく位置づけて配置するとか,もう少し工夫の仕方があり得ると思った.オルセー美術館の名誉のために,次のことを行っておくほうが公平であろう.われわれの当日の鑑賞経路が,美術館の意図した経路とは違っていたということである.そのことを,いまこの文章を書いているときにオルセー美術館の案内リーフレットを見て気付いた.しかし,訪問した一ヶ月後に,鑑賞経路が違っていたということを訪問者が気付く.その責任が訪問者のみにあるというのは,少し酷であろう.
この美術館で印象に残ったものを3点あげるとすれば,アングルの「泉」,ドガの「家族の肖像」,ゴッホの「自画像」である.昔から教科書などで見ていたアングルの「泉」はやはり美しい(写真26).
写真26 アングル「泉」
(http://stephan.mods.jp/kabegami/kako/Source.htmlより)
帰国後,そのことを友人に話したら,彼はお腹が出ているという.そういわれてよく見ると確かにお腹が出ているようだ.アングルは,ミロのヴィーナスをイメージしてこの絵を描いたというようなことをどこかで読んだことがある.ミロのヴィーナスのお腹はこれほど出ていないように思う.具体的にモデルがいたのであろうか.少し出たお腹を意識しながら鑑賞し直すと,美しさも半減するような気もする.してみると,はじめに「やはり美しい」と思ったのはどこを観ての評価だったのか.家内に聞いてみたら,お腹の出っ張りはあまり気にならなかったという.この程度は普通なのかも知れない.人によって見るところが異なるのが面白い.この程度のお腹の出っ張りは美の範疇に入るのだということで,納得するのが穏やかであろう.美術書によれば,この「泉」の作成年は1856年であるが,この絵の構想は1820年からという.完成したときのアングルの年齢は76歳前後である.
ドガの「家族の肖像」ははじめて見た絵であるが,ドガの達者ぶりを醸し出している.ドガがフィレンツェの叔父の家に滞在していたときに書いたものという.ゴッホの「自画像」(写真27)は,差し迫る狂気の縁に留まっている鬼気迫る迫力がある.じっと見ているとこちらが狂いそうな危うい気持ちになる不思議な絵である.この絵の前で,この「自画像」の目線と同じように鋭い目つきでこの絵を凝視している青年がいた.
写真27 ゴッホ「自画像」
(http://ja.wikipedia.org/wiki/自画像_(ゴッホ)より)
オルセー美術館をひと通り見終わって出てきたら五時を過ぎていた.セーヌ川を渡り,チュイルリー公園をぬけ,サン・トノレ通りを散歩しているとうなぎ屋やラーメン店などを何軒か見つけた.そのうちの一軒が「サッポロ・ラーメン」とカタカナの看板が掲げてあり,日本食が恋しいというわけでもなかったが,何か嬉しくなってついつい入ってしまった.ラーメン,餃子,ビールを注文して,本日の夕食とした.
(2010/9/13, E. M.)