Jul 2015

101年前の第一次世界大戦「宣戦詔書」に「集団的自衛権」の危険性を知ろう

憲法研究者の石村善治氏(福岡大学名誉教授)が標題の文章を書かれました.本人の了承を得てここにその文章をアップデートします.

憲法研究者 石村善治
2015.7.2

 現在の「戦争法案」が企図する「集団的自衛権」承認の危険性を示す歴史的事実が、今から101年前(1914(大正3)、8.23)の第一次世界大戦の「宣戦之詔書」にはっきり見られます。
 当時のドイツ帝国に対する大正天皇の「詔書」=「宣戦布告文」は、当時同盟条約を結んでいた「日英同盟」のもとで、ドイツが中国から得ていた「膠州湾(こうしゅうわん)」租借地でのドイツの「行動」を理由に宣戦布告をしました。
 「詔書」は次のように述べています。(以下 大意意訳・要約)
 「朕(天皇)は、今まで深く欧州戦乱の禍の基になることを心配して、もっぱら局外中立を厳格に守り、東洋の平和を保持することを願ってきた。しかしドイツ国の行動のため、ついに日本の同盟国である大英帝国は、止むを得ず戦端を開くに至った。ドイツは、租借地である「膠州湾」においても日夜戦備を整え、軍艦は勝手に東亜の海上に出没し、日本帝国やその他の国の通商貿易はそのために威圧を受け、極東の平和は、まさに危殆(きたい)に瀕している」と。
 この段落で詔勅の言わんとするところは、日本帝国は局外中立を厳格に守ってきたが、ドイツは中国「膠州湾」で戦争に「備え」、軍艦を勝手に東亜の海上に「出没」させているというだけで、日本やその他の国の通商貿易に「威圧」を受け、さらには、極東の平和がまさに「危殆に瀕している」といっているのです。具体的な武力行使の事実も兆しもなにもあげられていません。帝国が脅威を受けているというだけです。
 そして、さらに続けます。「日本帝国の政府と大英帝国の政府とは、お互いに意思を通じ合い(『隔意ナキ協議ヲ遂ゲ』)、両国は同盟協約の定める『全般ノ利益ヲ防護スル為』、必要な措置をとることに一致した。朕(天皇)はこの目的のために『務メテ平和ノ手段ヲ尽クス』ことを望んで、日本政府に対してドイツ政府へ『勧告』させた。しかし『所定ノ期日』になっても、ドイツ政府の『応諾ノ回答ヲ得ルニ至ラズ』、「宣戦布告」をする」というのです。
 ここは、一方的に回答を求め、その回答が無いからということで宣戦布告をしたのです。この前例は、「集団的自衛権」の名のもとに、第3国の具体的な「軍事行動」に至らない「軍事『的』行動」を理由に、同盟国の「意図を汲んで」日本の「軍事行動」を開始する危険性を充分に示しています。こんな事例が101年前に現実にあったことを知りましょう。

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(注)膠州湾(こうしゅうわん)とは、山東半島のドイツ租借地を指します。1890年からドイツ人宣教師達が山東半島で布教を始めていましたが、1897年11月に2人のドイツ人宣教師が殺害されたことから、11月14日(日)に青島(チンタオ)へドイツの戦艦カイザー、プリンセスウィルヘルム、コルモランなどが派遣され、約700名のドイツ兵が上陸。このとき居合わせた倍の兵力の清国軍が退却したため、そのまま青島を占拠してしまいました。最終的に6隻の戦艦が派遣されています。
 1898年3月6日(日)から北京で行われた交渉で、ドイツは膠州湾を租借地として99年間租借することを認めさせました。これが契機となってロシア、フランス、イギリスは勢力均衡を図るため、旅順、大連、広州湾、威海衛、九竜半島を租借しました。99年の99が中国語の久久(=永久)と同じであることから、これらの租借は永久租借、すなわち、事実上の割譲を意味していました。なお、これらの租借地の中国への返還は、膠州湾が1922年、威海衛が1930年、旅順、大連、広州湾が1945年、そして最後まで残っていた九竜半島-香港等-が1997年に行われています。
 1914年8月の第一次世界大戦勃発後、8月16日(日)に日本から租借地引き渡しの最後通牒を突きつけられたドイツは、これに返答せず、9月5日(土)にドイツ守備隊の10倍の兵力の日本軍が侵攻。11月7日(土)6時23分ドイツの守備隊は白旗をあげて降伏し、ドイツは膠州湾を失います。