マレーシアへの旅(2)

 APCTCC-4の会議が行われるThe Legend Water Chaletsというホテルまで,会議の主催者であるH氏夫妻と一緒になり,クアラルンプール空港からタクシーをご一緒させて貰った.あらかじめタクシー券(クアラルンプールやポートディクソンまでは二千数百円程)を買い,それを運転手に渡せばそれでよい.マレーシアには,英国の植民地時代が長かったにも関わらず,基本的にチップの習慣がない.これには,大いに助かった.ホテルでベッドの横にチップを置き忘れることを心配する必要もないし,また,食事のたびにチップの額を何パーセントにするかの計算に悩むこともない.英国の植民地統治の名残は,車の右側通行である.日本や英国と同様にタクシーは道路の右側を走ってホテルまで突っ走った.空港から小一時間でホテルに着いた.あまりに嬉しかったので運転手に10RM(約二百数十円)をチップとして渡した.マレーシア滞在中チップを出したのはこの時一回のみである.

 英国の植民地統治の名残は車の右側通行だけではない.様々な分野にわたっているのであろうが,旅行者でもすぐ分かるのは文字である.英語そのものの表記が使われている場合もあるが,例えば,komputer, kamera, kampusなどの明らかにミス・スペルの英語風看板が見えるので違和感を持っていたが,あまりにもその数が多いので,ある瞬間にこれはマレーシア語であると悟った.ウィキペディアで調べて見ると,以前はアラビア文字を元に作られたジャウィ文字が作られていたが,英国の植民地時代以来,マレーシア語は26文字のローマン・アルファベットで表記されるようになったとある.外来語は,英語の表記に似ているが少しずつスペルが違うのが面白い.クアラルンプール中心駅をKL Sentralと表記したり,博物館をmuzium,レストランをrestoran,バスをbasとしたりしたものがマレーシア語である.こう見ると発音をほとんどそのままローマ字つづりで表記したもので,マレーシア語の文字はわれわれ日本人にもすとんと分かり易い文字と言えそうだ.

 マレーシアは,英国の植民地になる以前には,ポルトガルやオランダにも占領されていた.しかし,日本も1942年から1945年までの間,シンガポールを含めてマレー半島を占領していたということをわれわれ日本人は決して忘れてはならない.もちろんこれは,日本の資源確保のための占領であった.太平洋戦争が,ハワイの真珠湾を攻撃する1時間20分前(日本時間1941年12月8日午前1時30分)にマレー半島北部のコタバルへの強襲上陸をもって開始されたことも記憶しておきたい.それを期に南下を続け70日間でシンガポールを陥落させた.この間にシンガポール華僑虐殺事件も起きた.日本政府はこの件に関してシンガポール政府に対して公式な謝罪をしていないことも忘れてはならない[注1].このような歴史的事実に対して無頓着な日本人は,アジアの人々から決して信頼されることはないだろうと,今回の旅行で改めて考えた.

(E.M.)
(2010/01/14)

[注1] 1966年にシンガポール政府へ5000万米ドルの賠償金は支払っている.