今年の原水爆禁止世界大会・科学者集会は「ビキニ被災 70 年から被爆 80 年へ 核兵器禁止条約への日本政府の参加を求めて」をテーマに、7月27日、静岡大学の対面会場とオンライン参加をハイブリッドして開催されました.集会では,70年前のビキニ水爆実験の被災を中心とした2つの講演と「ビキニ被災 70 年から被爆 80 年へ ~非核日本キャンペーンの意義~」と題した原水爆禁止静岡県協議会理事長・木藤 功氏の講演があり,参加者50余名による討論,「原水爆禁止世界大会 2024 科学者集会アピール」の採択が行われました.また,集会の前後には動画「焼津市歴史民俗資料館 『第五福竜丸被災70年特別展』を訪れて ~静岡大学生 2 人が学芸員とともに第五福竜丸被災について学ぶ~」の放映も行われました.
最初の講演は,高橋博子氏(奈良大学文学部教授)による「ビキニ水爆実験被災の現代的意味と課題 ~隠され続けるグローバルヒバクシャ/隠され続ける核被災文書~」と題する講演でした.高橋氏は,演題にもあるように「隠され続けた」文書を主にアメリカの公文書の公開・閲覧を求め,アメリカとそれに協力する戦後日本政府による原水爆に関する情報を探る中から明らかになってきたアメリカの原水爆の研究・開発の実態の一部を紹介されました.
講演の最初に公文書の保管の重要性を,アメリカの米国立公文書館(NARA)の設立趣意(次の囲み)を紹介し,合わせてそこにある碑に刻まれている「自由と民主主義の下では,市民は監視される対象なのではなく,政府こそが監視される対象である.」ことを示す「永遠の監視は自由の代償 (Eternal vigilance is the price of liberty)」との碑文を示して強調されました.また,合わせて日本国憲法21条や1791年に成立したアメリカの「信教・言論・出版・集会の自由,請願権」との関連における重要性も提示されました.
NARA (NATIONAL ARCHIVES AND RECORDS ADMINISTRATION) は,人々が記録遺産から発見し,それを使用し,学ぶことを保証するため,私たちの政府の文書を保護し保持することによって,アメリカの民主主義に仕えます.私たちは,アメリカ市民の権利と政府の活動についての,本質的な記録に継続的にアクセスすることを保証します.私たちは民主主義を支援し,市民教育を推進し,私たちの国の経験についての歴史的理解を促進します.
以下に,高橋氏の講演で提示された資料の1例を挙げておきます.
米原子力委員会生物医学問委員会議事録より:
メリル・アイゼンバッドの発言 1956年1月13日・14日
近い将来に向けて考えていることがいくつかあるので,そのいくつかを紹介したい.
・ウトリック環礁は,3月1日の被爆から最も遠い環礁で,初約15レントゲンの被爆を受けた人々が避難し,その後戻ってきた.
・その島で生活していた人たちは,現在では安全に生活しているが,世界で最も汚染された場所である.
・今,その島は安全に住めるようになったが,世界で最も汚染された場所であり,環境データ,1平方マイルあたりどれくらいなのか,どのようなアイソトープが関与しているのか,また,多くの人間の床から食品の変化のサンプルを採取し,汚染された環境で生活する際に人間が取り込む量を測定することは非常に興味深い.
・このようなデータはこれまでなかった.これらの人々が欧米人のような文明的な生活をしていないことは事実だが,それでも,これらの人々がネズミよりも私たちに似ていることもまた事実である.というわけで,この冬はこの調査を行う予定である.
高橋氏は,このような「隠された資料」を提示しながら,核開発の過程で行われた様々な非人道的な所業を指摘して,ビキニ水爆実験被災のより詳細な実態を解明してゆくことの重要性を強調されました.
聞間元氏(静岡県保険医協会・生協きたはま診療所 )の講演は,「ビキニで被災した漁船員被害の広がりとその後の調査」と題し,ビキニでの被災が第五福竜丸以外に,また漁船に限らずいかに広範囲に広がっていたものかを詳細な資料を載せたレジメを基に詳しく紹介されました.また,「ビキニ事件はなぜ忘れられていったか」という考察の中で以下のような問題点(配付資料の要約を上げておきます)を指摘されました.
・ビキニ事件当時,まだ放射線被ばくによる人体の長期的影響は十分にわかっていなかった.
・ビキニ被災は,主として体内に吸収されて生じる内臓被曝という点に特徴がある.福竜丸以外の被災船員には一見してわかる傷害があったわけではないので,無視されても抗議の声は上げられなかった.
・米国にとっては太平洋での核実験に支障があってはならず、国内では漁業への影響、魚が売れなくなるという事態が焦眉の問題であった.そのため,見舞金という形での早い政治決着が急がれ,決着と同時に国民の関心は急速に冷めてしまった.
・三崎港や清水港以外の漁港には海員(労働)組合もなく,若い被災船員たちの雇用条件も前近代的な雇用制度 (一船一家主義) の下にあって,魚が売れなくなっては困るという船主の意向も強く,自分の被災体験を話すこともタブーとなってしまった.
・1957 年には原爆医療法が成立した当時,立法に奔走した議員の原案には原爆被爆者と並んで「過去における水爆実験、将来における水爆実験等による被災者」も対象に挙げられて
いた.しかし当時の対米関係を重視する国内政治の状況からこの部分は早々と削除されてしまった経緯があった.
・同時期に始まった政府の原子力開発計画の中でも,人体への放射線影響の問題はあまり
重視されていなかった.ビキニ事件 3 年後の 1957 年 5 月には日本原子力委員会に放射能調査専門部会が設置され,2 年後の 1959 年 5 月に部会の編集で「放射能調査の展望」が公刊された.しかし,その後部会は開店休業状態になり 1972年に廃止されている.日本の科学技術史の中で,核実験被害者の健康調査という視点がなぜ欠落してしまったのか,検証すべき問題である.
・2013年になって研究者や報道関係者の請求によって開示された米国の国立公文書館のファイルから,米国原子力委員会も多くの被災漁船・船舶があったことを把握していた証拠が見つかったが,長い間こうした事実は隠されていた.被災船員が「忘れられた」のではなく,「忘れることを要求された」とみるほかはない.
指摘された問題点の最後の点に関する内容が,前述の高橋氏の講演の基となっています.
講演の最後は,原水爆禁止静岡県協議会理事長・木藤 功氏の「ビキニ被災 70 年から被爆 80 年へ ~非核日本キャンペーンの意義~」と題した訴えで結ばれました.全体討論の後,「原水爆禁止世界大会 2024 科学者集会アピール」の採択をして集会は終わりました.
(報告者:小早川義尚)

