2024/10/20 福岡核問題研究会の報告(2024/08/24,2024/10/05)

<福岡核問題研究会8月例会>
日 時:8月24日(土)10:00〜12:00
話 題:「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーについて
話題提供:三好永作

<福岡核問題研究会9月例会>(日程調整で開催が10月にずれ込んだ)
日 時:10月5日(土)10:00〜12:00
話 題:原発運転停止裁判における水蒸気爆発問題の再整理
話題提供:中西正之氏

 8月例会では,「原爆の父」ロバート・オッペンハイマーについての話題提供があった.オッペンハイマーが広島と長崎の被爆者に公式に謝罪した記録は存在しない.しかし,6月20日にNHKが放送したものによると,被爆者と面会した際,オッペンハイマーが「涙を流して謝った」と立ち会った通訳が証言している映像が見つかったという.1964年に被爆者(物理学者・庄野直美氏を含む)などが証言を行うために米国を訪問したとき,通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録した映像資料が,広島市のNPOに残されていた(注1).このとき二人の被爆者と面会したオッペンハイマーは,「ごめんなさい,ごめんなさい,ごめんなさい」とぼうだの涙を流して謝ったという.藤永茂氏によると,オッペンハイマーにとっては人間と人間の関係が大事であったという(注2).
 オッペンハイマーは,1904年4月22日,米国ニューヨークで生まれた.父は青年実業家,母は画家で両親ともユダヤ教をはなれたユダヤ人であった.1911年9月に裕福な家庭の子どもたちの学校で,宗教信仰に依存しない倫理体系で教育する私立学校「倫理文化学園」に入学し,1921年にその高等部を卒業した(17歳).
 大腸炎で自宅療養したため,同年秋の大学進学が不可能となる.1922年9月にハーバード大学化学科に入学し,1925年6月に4年の学部課程を3年でしかも「最優等」で卒業した.オッペンハイマーは1923年5月(大学1年生の時)に物理学の教授に学部の物理学教程の単位を取ることなしに大学院の教程の受講許可を求める申請書を出している.そこには既に読んだ物理学書を15冊(ポアンカレー『現代物理学』,ギブス『非均一系の平衡論』,ジーンズ『気体運動論』,ゾンマーフェルト『原始構造とスペクトル線』など)をあげていた.この申請は6月6日の物理学教室の会議で許可された.後年,オッペンハイマーはその教室会議である教授が「もしこれらの本を読んだというのなら,この男が嘘つきだということは明らかだが,これだけの本の題名を知っているというだけで博士号ものだろう」と発言したという話を聞かされたことがあると語っている(注2).
 1926年ボルンのゲッチンゲン大に招かれる.そこで1927年3月に博士号を授与され,「分子の量子理論について」という題名の論文(1927年8月受理)を書き上げてボルン・オッペンハイマー近似という分子の量子理論で重要な基礎を築いた.
 1929年秋にカリフォルニア大バークレー校(UCB)とカリフォルニア工科大(Caltech)の両方の掛け持ち助教授となる(25歳).秋からクリスマスまでバークレーで量子力学の講義を行い,年が明けるとパサディナ(Caltech)に居を移し,そこでまた1学期分の講義をする.多数の大学からの誘いがあったが,2年の就任でよいことでこれらを選んだという.もう一度,ヨーロッパで研究することを強く望んでいた.
 オッペンハイマーの研究グループは,8〜10人の大学院生と半ダースほどのポスドクからなる.彼の部屋で一人ずつ研究の進み具合について議論することになる.彼は,電磁力学,宇宙線,宇宙物理学,核物理学などあらゆる分野に興味を示した.グループは,バークレーでの彼の講義が年末に終わると,彼と共に渡鳥のようにパサディナに移り住んだ.
 1943年,ロスアラモス国立研究所の初代所長に任命され(39歳),原爆製造の研究チームを主導した.1945年7月16日に人類初の爆縮型原爆実験に成功し,同8月に広島と長崎に原爆が使われる.1947年にはプリンストン高等研究所所長に任命され(43歳),1966年まで務めた(62歳).
 1954年4月12日,「赤狩り」の中で休職処分(事実上の公職追放)を受ける.しかし,2022年12月16日,米エネルギー省長官は1954年の処分は「偏見に基づく不公正な手続きであった」として取り消した発表した.1967年2月に喉頭がんでこの世を去る.
 「オッペンハイマーは一流の物理学者ではなかった」との評価に対する反論や,「オッペンハイマーはプルーデンス(prudence)を持たない男であった」との評価についてはここでは省略する.prudenceは「慎重」や「思慮深さ」を意味するが「抜け目のなさ」や「ずる賢さ」との意味もある.ここでは後者の意味で使っている.また,「原爆投下で日本を降伏させたオッペンハイマーは英雄か」という問いに対する回答も興味がある.これらについては長くなるので,核問題研究会のホームページにある8月24日の発表資料をご覧いただきたい.

 9月例会は,日時の調整の関係で9月中には設定できず10月5日に行われた.「原発運転停止裁判における水蒸気爆発問題の再整理」というテーマで中西正之氏に話題提供を頂いた.
 2011年3月の福島原発事故直後から日本国内で原発の再稼働に反対する原告団により,各地の地裁において原発運転停止裁判の仮処分訴訟が多数行われるようになった.事故直後には,地裁による原発運転停止判決が出され,再稼働したばかりの原発が一時期運転停止をせざるを得ない状況もあった.しかし,2012年12月の第2次安倍政権の発足以来,原発再稼働推進策が進められ,それが裁判所にも影響するようになり,原告敗訴の判決が続くようになった.
 新規制基準の策定においても,福島事故で認定された事故原因につては対応を立てるが,それ以外の国際原子力機関(IAEA)の大切な4層,5層の深層防護は無視された.ヨーロッパでは最重要項目の一つとされている水蒸気爆発対策問題が,新規制基準では全く欠落している.高島・後藤論文(注3)は,「水蒸気爆発は溶融物に水をかけても発生するが水プールに溶融物を落とす方がはるかに発生しやすい.しかし,九州電力,関西電力,四国電力ではシビアアクシデント対策として,溶融燃料を水のプールに落下させて冷却する方法を採用している.これは水蒸気爆発を発生させる可能性が高く,自殺行為と言わざるを得ない」と述べて,水蒸気爆発の危険性について警鐘を鳴らしている.
 関西電力は,大飯原発・高浜原発運転停止裁判で「IAEAの深層防護の1〜3層までの安全対策を万全におこなっている.したがって,第4,5層の安全対策は必要ない」と主張し,深層防護についての無知を曝け出している.経済協力開発機構(OECD)は明らかに原発推進勢力の1つであるが,SERENAプロジェクトを立ち上げ水蒸気爆発についての対策をどう立てるかについて真剣に取り組んでいる.この姿勢を日本の原発推進勢力は見習うべきではないか.
 水蒸気爆発の危険性について,裁判所は「原子力規制委員会が適合審査について,水蒸気爆発の危険性がないと判定しているので,弁護団の主張するような大変な危険性はないと判断した」と説明している.
 2017年の玄海原発再稼働禁止仮処分申立事件における補充書面8「水蒸気爆発対策の不備」において原告弁護団は「玄海原発3・4号機においては水蒸気爆発の起こる可能性が否定できず,格納容器破損防止のためには,水蒸気爆発の対策を講じる必要がある」,「(九電は)水蒸気爆発の起こる可能性が極めて低いとして対策の必要性自体を否定している」,「再稼動を許せば,過酷事故時に放射性物質が大量かつ広範に拡散することを防ぐことができない」と結論している.
 これまで電力会社は,水蒸気爆発が実際に発生したTROI実験やKROTOS実験では,外部トリガーを使った時のみ水蒸気爆発が起きたことを理由に,実際の過酷事故時には,そのような外部トリガーはないのだから,過酷事故時には水蒸気爆発は起きないとして,原発周辺住民や国民を欺いている(過酷事故時に水蒸気爆発のトリガーとなる事象が発生しないと誰が断言できるのか).
 玄海原発差止等請求事件における準備書面「水蒸気爆発についての補充主張」(2022年9月22日)によれば,スウェーデン王立工科大学(KTH)は水プール内での溶融物広がり実験を,PULiMS装置(注4)を用いて行い,有効な実験5回のうち,3回で層状の水蒸気爆発が自発的に発生したという.外部トリガーがなくても水蒸気爆発は自発的に発生し得るということである.電力会社や原子力規制委員会は真剣な水蒸気爆発対策が必要となろう.

(注1)https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240620/k10014486571000.html
(注2)藤永茂『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(ちくま学芸文庫,2021年)
(注3)高島・後藤「原子炉格納容器内の水蒸気爆発の危険性」,『科学』Vol.85, pp.897-905(2015).
(注4)PULiMS: Pouring and Underwater Liquid Melt Spreadingの略
(報告者:三好永作)