2024/12/23 コラム 日本酒造りは何が素晴らしいのか? ユネスコ無形文化遺産登録に寄せて

令和6(2024)年12月、日本酒や焼酎、泡盛、といった日本の「伝統的酒造り」がユネスコ無形文化遺産へ登録された。筆者は、偶々、日本酒造りが盛んな城島町の地元で清酒造りについての勉強会に参加した。そこで、見聞したことをご紹介したい。

世界の酒造りの多くは、「糖分+酵母+水」によるアルコール発酵である。麦芽を発酵させビールが、また、葡萄を発酵させワインが作られている。しかしながら、日本の酒造りが世界的に見て非常に貴重であるのは、アルコール発酵と同時に、「麹菌のアミラーゼ酵素によるデンプン加水分解」(麹菌は、醸造食品の製造用に培養されたカビの一種。麹菌のアミラーゼがデンプンを糖(グルコース)に分解し、その糖を使ってアルコール発酵がなされる)を同時に行うことである。これは、「並行複発酵」といわれる。また、日本酒造りは、麹菌のバイオテクノロジーを活用した技術ともいえる。

当地域の酒造りの米には、主に三潴産「夢一献」、糸島産「山田錦」などが使われている。まず、籾米を、ゆっくりと①精米する。精米歩合が70%(本醸造用)、60%(吟醸用)、50%以下(大吟醸、純米大吟醸用等)となるよう、酒の種類に応じて磨くが、急速な研磨熱が味を劣化させるため、数日かけてゆっくり精米していく。次に、②洗米である。このとき、約1分30秒の間洗米するが、時計がない時代、職人達は「筑後米あらい歌」を歌って時間を把握したのであった。次に、③浸漬、④蒸米し、一気に⑤冷却、その後、⑥麹菌をかけ、⑦酛(もと)と蒸し米を混ぜ、タンクに入れ発酵させる。このとき、三段仕込み(初添、仲添、留添)で行う。それを⑧圧搾し、原酒と酒粕に分ける。⑨滓引(おりびき)し、上層の上澄みを⑩濾過する。原酒には酵母菌が存在するが、長期保存のために、酵母菌を失活する目的で、一気に65度の⑪火入れを行う。さらに、⑫熟成、また、日持ちをさせるため、サトウキビから作られたアルコールを添加し、⑬調合する。最後に、出荷前の殺菌のために、再度火入れを行う。これが本醸造である。こうして清酒が瓶に詰められ、市場に出回るのである。

元来、硬水でつくられていた日本酒だったが、城島町では、灘の醸造法を学びながらも、土地独自の酒造りの大切さが認識され、明治23(1890)年には、暖地軟水醸造法が主流となった。この技術が、日本の中国地方にも継承され、こうして、日本の酒造りでは、「西の城島、東の灘」(ナダ)といわれるようになった。

日本酒の甘口、辛口は、ブドウ糖の量で決まる。辛口というのは、アルコール発酵するための糖が少なくなっていることを意味する。かつて、清酒は、酒税法により、特級、一級、二級と分類したが、品質表示が煩雑であったため、この分類は、平成4(1992)年に廃止された。現在は平成2(1990)年に作られた「清酒の製品品質表示基準」に則り分類され、「本醸造酒」、「純米酒」、「吟醸酒」、それに「普通酒」などとなっている。(酒税法(昭和28・2・28法律第六号))。
 酒税法第三条には酒類が分類されており、同条第七号には、清酒の定義が規定されている。

第三条 
七 清酒 次に掲げる酒類でアルコール分が二十二度未満のものをいう。
イ 米、米こうじ及び水を原料として発酵させて、こしたもの
ロ 米、米こうじ、水及び清酒かすその他政令で定める物品を原料として発酵させて
、こしたもの(その原料中当該政令で定める物品の重量の合計が米(こうじ米を含
む。)の重量の百分の五十を超えないものに限る。)
ハ 清酒に清酒かすを加えて、こしたもの

 次に、酒造りに関連する様々な事柄も重要である。我が福岡県「久留米市城島町」は、旧「三潴(みずま)郡城島町」と呼ばれた。三潴とは、奈良時代、「水沼(みぬま)郡」と表記されたという。旧三潴郡城島町は、日本三大暴れ川の一つ、別名筑紫次郎、「筑後川」の川沿いにあり、まさに水が豊富な地域であった。川は酒造りの水だけでなく、酒の舟運にも非常に重要な役割を果たしていた。
 城島の酒造りは、江戸時代、延享2(1745)年、富安栄重(旧「泉屋」、現「花の露」創業者)により始まるといわれる。
 毎年9月、刈り入れ前に、「松尾神社」(お酒の神様と言われる)において、醸造安全祈願祭が催され、地域の女児が舞姫となり「浦安の舞」(昭和天皇が詠まれた平和を願う御製)を舞い、男児は奉納相撲をとる。これは、現在も受け継がれる伝統行事である。日本酒は、現代でも御神酒として供され、日本の神事には不可欠なものである。
 さらに、日本酒は男性の集まる軍隊にも必要なものであったようだ。日清戦争頃には、いち早く鐘ヶ江銀行(後の、大川若津の三潴銀行)がつくられ、財力を誇った。明治時代には、販路は、満州、朝鮮、青島、台湾にも拡大したようだ。東條英機も、久留米で歩兵第24旅団長をしていたときに、城島の酒を非常に気に入っていたそうである。
 また、石炭産業の繁栄で、炭鉱業が盛んになると、筑豊や三池にも大量に販売された。こうして、酒造りは国の重要な産業経済の要ともいえるものになっていった。蔵元の子孫には、渋澤栄一の娘婿となった者もいる。

 前述した旧三潴銀行は、現代でも、歴史的建造物として保存されている。また、日露戦争後の好景気で、明治31(1898)年の最盛期に、蔵元は85軒にも上った。明治41(1908)年には、大川馬車軌道株式会社、さらに、同45(1912)年には、久留米縄手と大川の若津を結ぶ「大川軽便鉄道」も開通した。

 江戸時代から続く酒造りだが、先駆的な技術革新の拠点でもあったようだ。西洋の蒸気機関による機械化も早期に導入され、上水道技術など、精力的に先進技術を取り入れていった。これにより、清酒の大量生産が可能になった。財力を持った蔵元は、政治的にも影響力を持つようになったようである。とりわけ、清酒は、租税の重要な財源であるため、当時の大蔵省にも、影響力があったと言われる。このように、酒造業は地域のインフラ普及に重要な役割を果たしてきたのである。

 さらに、この城島町の周辺では、酒造りに関連する様々な産業もまた発展していった。稲作はもちろん、酒蔵の屋根の瓦づくり、また、酒樽に使用する樽造り、桶造り、イ草製造などである。酒の他、作られたみりんを利用したウナギ料理なども同様である。
 財力を蓄えると、蔵元は地域の教育、政治や文化振興にも力を入れた。「花の露」は、教育の重要さを認識し、大正12(1923)年には、敷地の一部を提供して、旧制三潴中学が開校した。国会議員選出も後押しするなど、政治的影響力ももっていた。
 このほか、蔵元「清力」は、創業者の実父が美術に造詣が深く、当時まだ珍しい時期に、洋館「清力美術館」も建造している。画家の青木繁、作家の北原白秋を支援し、文化振興なども行っていたことが明らかになっている。
 とはいえ、明治時代に隆盛を誇った酒造りも、戦中の企業整理、戦後の生活習慣や趣向の多様化によって、縮小を余儀なくされ、現代では、10軒の蔵元が残るだけになってしまった。城島町では、毎年2月、酒蔵開きが開催され、全国から観光客を受け入れている。て令和5(2023)年3月には、「城島酒蔵ものがたり」が久留米市の筑後川遺産第1号に登録された。そして、ユネスコの登録である。筆者自身、下手の横好きながら外国語習得を続けてきたが、ドイツ、オーストラリア留学、また、大学院では海外の留学生らとの交流を深める機会も少なくなかった。こうして、世界を多少なりとも見聞してきて、日本の丁寧な手仕事、そして、勤勉さ、仕事に対する向き合い方は、世界に対しても誇れるものがあるのではないか、と感じるようになった。これらの画期的出来事により、日本、そして城島の伝統的酒造りが内外からますます注目を集めることを期待する。

参考文献
實藤久光「城島の酒造り」日本釀造協會雜誌 1987年 82 巻 5 号 354-359 .
宮地英敏「福岡県旧三潴郡における近代酒造業の展開 : 城島の日本酒生産を中心として」
    經濟學研究. 90 (5/6), pp.15-34, 2024-03-29. 
(文責:伊佐智子) 

久留米市筑後川遺産「城島酒蔵ものがたり」パンフレットより。