<エッセイと討論のための広場No.4> 「方位磁石と渡り鳥の磁気感覚」(出口博之)

 皆さんは,方位磁石(磁気コンパス)というと何を思い浮かべますか? 私は,小学生のころの遠足に持って行った水筒のキャップに小さな方位磁石が付いていたのを思い出します.あるいは,やはり子供の頃にオリエンテーリングという野外競技で,コンパスと地図を使ってチェックポイントを探し回ったことでしょうか.理科の実験で棒磁石のN極とS極を調べるのに用いたこともありました.大学教員になってからは,磁性体の研究(量子スピン系やナノ粒子の磁性)を専門としてきましたが,方位磁石はほとんど手にしませんでした.このエッセイでは,方位磁石についてのエピソードと渡り鳥の磁気感覚を紹介します.
 国立大学の法人化前でしたから20年以上前のことになります.その頃から大学も社会貢献が求められるようになり,私の所属する九州工業大学も北九州市の教育委員会と連携して教育事業に取り組むことになりました.市内の小中学校の教員から理科教育を進めていく上での実験機器を大学で開発してほしいという要望が出され,「小中学校理科教育検討委員会」が発足しました.当時,私は物理教室の一番若い教員でしたので,そのメンバーに指名されました.その委員会の席上で,小中学校の先生から理科教育に関する様々な要望が寄せられました.例えば,目に見えない電気を「見える」ようにして教えたいとか,なかなか難しいことをお願いされた記憶があります.その中で,ある小学校の先生が,「屋内で方位磁石を用いて方位を調べるときに,いろんな電気機器やマグネットの磁場に影響されて正しい北を示さないことがある.地磁気だけを感知する方位磁石を作ってほしい.」と言われました.私は,「地磁気の磁場のみを選んで感知するような方位磁石は作ることはできないと思います。」と咄嗟に答えてしまいました.無理難題を吹っ掛けられたという気持ちになったのを憶えています.結局,「検討委員会」では,電気を見えるように教えるための装置として,電流を水流に,電池をポンプに,モーターを水車に,導線をホースに置き換えた「電気回路」を作成して実演しましたが,あまり喜んでもらえずお蔵入りとなりました.
 最近,元大学教員の友人と雑談している中で,スマホのアプリとして「磁気コンパス」があり,その中には周りの磁場に影響を受けず,正しく方位を示してくれるものがあるという情報を教えてもらい,驚きました.まさに,あの小学校の先生の要望に叶う「方位磁石」が現在では実在するようです.磁気コンパスのアプリを検索すると,実に多くの種類があり,様々な付加機能もあるようです.いくつかのアプリには,地磁気以外の周囲の磁気を検出して補正する機能があるような説明がありました.その中で,ダウンロード数の多い,「デジタルコンパス」,「コンパス-Smart Compass」,「GPS Status & Toolbox」の3つの無料版をスマホにインストールしてみました.これらのアプリを開くと,方位磁石の図が出てきてスマホの向きを変えると,方位磁石が回転して北の方位とスマホの方向の角度および地磁気の強さが数値(µT)で表示されます.確かにその場での方位をすぐに調べるには便利なアプリです.試しに家にあるマグネットを近づけてみると,数十センチメートルの距離では方位を正常に示しましたが,数センチメートルとなると3つとも磁場の数値が大きくなり,方位が正しくなくなりました.強い磁場は補正できないのか,補正の機能が無料版にはないのか,あるいは私が「補正」の機能設定をしていないためなのか,よくわからない結果となりました.
 話は変わりますが,渡り鳥は繁殖地と越冬地の間のとてつもない距離を毎年往復しています.目的地にたどり着くために,渡り鳥は太陽や星のような天体をナビゲーションの手がかりとして使っていますが,それだけではなく地磁気を検知する磁気コンパスを使って自分の位置や向きを割り出しているそうです.(文献1,2)最近の研究では,渡り鳥の磁気コンパスは,眼の網膜細胞内にあるクリプトクロムというたんぱく質の光化学反応で生じる「ラジカル対」の分子ペアでの量子効果に基づいているようです.ラジカル対の2つの不対電子のスピン(磁気モーメントに対応する)が反平行になる一重項状態と平行になる三重項状態の間の遷移エネルギーは外部磁場に影響されます.これを利用して渡り鳥は地球磁場の磁力線を知覚してナビゲーションに用いているようです.クリプトクロムは眼の網膜にあるので,渡り鳥には磁場が光と同様に視覚的に見えている可能性が高く,「磁気感覚」を有していると考えられます.磁場がどのように渡り鳥に見えるかは非常に興味があるところです.ヒトもクリプトクロムを有していますが,ヒトで磁気感覚が報告された例はありません.ヒトが進化の過程で磁気感覚を捨てたのか,一度も持たなかったのかはわかりません.量子科学技術研究開発機構の新井氏は,「ヒトは磁場にかなり鈍感な動物であり,その結果,我々は様々な電子機器を自由に使える恩恵を受けている.」と話されています.(文献2)
 生活空間に磁場を発生する多くの電子機器に囲まれている現代人にとっては,磁気感覚は邪魔なものかもしれません.磁気感覚のない現代人は,肌身離さず携帯しているスマートフォンの磁気コンパスのアプリで方位を調べることができます.このコンパスは地磁気以外の周囲の磁場(人工磁場)を検出して補正する機能もあるとのこと.しかし,磁気感覚を持つ動物にとっては,人工磁場は大変迷惑な存在かもしれません.

文献1:「シュレーディンガ-の鳥 生命の中の量子世界」,V.ヴェドラル,日経サイエンス,2011年10月号.
文献2:「特集 渡り鳥の量子コンパス」,日経サイエンス,2022年8月号.