8月3日(日)13:30〜16:30の日程で,原水禁世界大会科学者集会がオンラインで開催されました.100名を超える参加者が,上山明博 さん(ノンフィクション作家,日本科学史学会会員)と羽場久美子さん(国際政治学者,青山学院大学名誉教授)の講演(報告)を聴き,質疑応答と討論を行いました.以下,それぞれの講演内容について第1部・第2部として概要を報告します.
【第1部】
上山さんは,科学者の人物伝を中心に著作活動をされており,今年『仁科芳雄「原爆を作ろうとした物理学者」がみたもの』を上梓されています.その本の内容に基づく報告1として上山さんが「核廃絶 ―仁科芳雄博士がめざしたもの」と題して講演されました.
講演では,仁科芳雄博士が戦中・戦後にどのように原子核の研究を進めようとしたか,またその中でどのように軍部(陸軍)の原子爆弾開発に関わってきたか,そして原爆投下後の広島に調査に入る中で原子爆弾に対する思いがどのように変化していったかを科学史に関するノンフィクション作家らしく様々なエピソードを交えつつ紹介されました.
上原さんは,最初に「1:科学者は戦争に翻弄されたのか」として,安田武雄の『日本における原子爆弾製造に関する研究の回顧』から以下のような引用を紹介されました.
「昭和15年の半ばを過ぎた某月某日,当時陸軍航空技術研究所長の職にあった私は,新宿から立川へむかう通勤の列車の中で,Y博士を伴ったN博士の口から始めて,原子爆弾の製造に関する実験研究に着手する用意がある旨の申出に接した.
語る人もいささか勢い込んだ様子に見えたが,聞く私も今の今迄,遠い未来の夢だとばかり考えていたことが,にわかに現実の問題として身近に迫って来るのに対し,心おのずとハズむのを禁じ得なかった.後で思えば,これが日本における原爆の研究,くわしくは日本陸軍航空における原子爆弾製造に関する研究の発端であった.」
その紹介を切り口に上原さんは,戦中に原子核物理を研究していた理化学研究所のN博士(仁科)が,おそらく自らの原子核物理学の研究を進めるための資金を陸軍から得ようとしたのであろうと推測されました.その陸軍の原爆開発を目指す研究は仁科の「に」に因んで「二号研究」と呼ばれたこと,また,それとは別に海軍が原子爆弾製造の可能性について京大の荒勝研究室に研究を委託し,その研究はF研究と呼ばれたことなども紹介された.そうした過程で,ドイツで行われていた原爆の研究の状況や核種変換や核分裂の実験の進展状況をどこまで仁科博士が知っていたのかは不明であるとも話されました.
次に「2:サイクロトロンとは何か」との項目で,具体的にはサイクロトロンの開発と実験を行っていたこと,敗戦後GHQによってそのサイクロトロンが軍事研究(原爆の開発)に繋がるものとして品川沖の海中に放擲された時のことを紹介されました.その時,仁科博士はサイクロトロンが基礎研究を目的としての装置であるとその破壊と放擲に反対したがかなわなかったそうです.
続いて「3:被爆国がなぜ原発大国になったのか」との項目で中曽根康弘の『自省録』から以下の引用を示され,戦後の自民党政治における科学技術政策・原発政策の1つの原点ではないかと示唆されました.
「1945年か46年でした.マッカーサーのGHQが,仁科芳雄博士のつくったサイクロトロンを品川沖に放擲した新聞記事です.それを見た私は非常な怒りを覚えました.彼らは,原爆に関係しているといって,サイクロトロンを放擲したのですが,これは科学技術の基礎的な平和研究施設でした.そういうものまで,国民の見ている前で無残にも品川の沖に捨てることに,心底から屈辱感を覚えました.やはり日本は科学技術で国を興さなくてはいけないという思いを強くしました.」
上原さんは,「4:爆心地に立った仁科の想いとは何か」と「5:科学者の義務とは何か」という項目では,仁科芳雄の『原子力と私』から,以下の2つ引用を示して自らの考察を紹介されました.
「原子爆弾の攻撃を受けて間もない広島と長崎とを目撃する機会を得た自分は,その被害の余りにもひどいのに面を被わざるを得なかった.至る所に転がっている死骸はいうまでもなく,目も鼻も区別できぬまでに火傷した患者の雑然として限りなき横臥の列を見,その苦悶の呻きを聞いては,真に生き地獄に来たのであった.〈中略〉そして戦争はするものではない.どうしても戦争は止めなければならぬと思った.」
「原子力の応用は一般人に対して原子爆弾ほど目覚ましいものは見られない.その結果として科学を呪う声も聞かれるのである. 〈中略〉若し人類が戦争というものをこの地上から追放することさえできるならば,原子爆弾はただ過去の遺物となり,原子力は文化の発展と人類の進歩だけにその役目を果たすことになるであろう.そうなってこそ始めて,真の原子力時代が来るのである.これはわれわれの義務である.」
報告者(小早川)は,そこに引用された仁科博士の思い・考えは,時代的制約はあったかもしれないが,なんとも甘い見通し・見識だったのだなとの感想を持ちました.
最後は,「6:日本学術会議とは何か」という項を立てて,1949年10月6日の日本学術会議声明の「日本学術会議は,平和を熱愛する.原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は,国際情勢の現状にかんがみ,原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する」という声明を取り上げられて,核廃絶に向けた科学者の姿勢の重要性を指摘され講演を結ばれました.
【第2部】
羽場さんは,報告2として「戦後80年,原爆投下80年における先進国の戦争準備と学術の軍事化」と題して,戦後80年の前の半世紀の間,明治維新後の日本は1895年終結の日清戦争以降戦争の時代であったと指摘され,その歴史を振り返りながら,現在の世界の状況とそれをどうすれば戦争では無く平和の方向へ向けられるかについて講演されました.講演内容は詳細な資料を基にした多岐にわたる内容でした.すべてを網羅することはできませんが,報告者がまとめた講演の要旨は以下の通りです.
まず,第二次世界大戦の終結後80年の現在,世界は戦争と平和の二つの潮流に分断されていると現在の世界情勢を規定されました.そこでは,一方では平和維持の流れが,他方では戦争準備の勢力が急成長していると説明され,特に欧州や日本の軍事費増額,核廃絶への取り組みの遅れ,歴史認識の欠如が問題となっていると指摘されました.
続いて,日本の明治期以降の歴史をふりかえると,日本は欧米の植民地主義に倣い,日清・日露戦争を経てアジア大陸に軍事進出し,日中戦争,太平洋戦争へと突入し,南京大虐殺や原爆投下を招いたと指摘されました.そして,戦後,日本はアジア諸国への謝罪を怠り,再び戦争準備を進めているが,それに対して大勢として学術界は,学術会議を始め多くの学協会や大学は戦争への協力拒否を表明してきたと述べられました.しかし,学術・科学技術の著しい成長が戦争を残虐化してきた事実に科学者は思いをはせる必要があると強調されました.
次に,現在の世界の戦争拡大の背景にはアメリカの衰退があり,トランプのMAGA (アメリカを再び偉大に!) は,MAFA (アメリカを再び衰退に!) になっていると様々な指標を示しつつ指摘されました.具体的には,覇権国アメリカは基軸通貨の強みで資金を集め,軍備を構築し,物品を買い集めるが,財政赤字,貿易赤字,貨幣大量発行,貧富の差拡大,内乱,新興勢力の挑戦,経済破綻,基軸通貨地位喪失という衰退パターンを辿ると現状を分析されました.そうしたアメリカに対して,2030年には中国がアメリカを,2025年にはインドが日本をGDPで抜くと予測され,BRICSやいわゆるグローバルサウスの勢力の急成長に注目すべきであるとも強調されました.
また,日本はGDP世界4位ながら一人当たりGDPは38位で,大企業は儲けているが国民への配分不足しており,少子高齢化と労働力不足が深刻で,移民受け入れが急務となっていると国内の状況についても端的に分析されました.
このような欧米を中心とした先進国の覇権衰退の恐怖と「対抗国つぶし」が戦争と混乱を引き起こしている世界の状況と日本の現状から抜け出すために,市民や科学者には,アジア諸国との地域協力が求められ,沖縄,広島,長崎を平和のハブにすべきであると提起されました.そこでは,学術界・科学者は政府批判だけでなく,市民,自治体と連携し,平和と共同,発展に貢献すべきであり,国家間の対話に比べ市民・自治体間での対話と友好関係の樹立は着実・忖度無くに進めて行けると強調され講演を締め括られました.
(報告者:小早川義尚)
2025/08/19 2025年原水禁世界大会科学者集会の報告
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