2024/08/21  <エッセイと討論のための広場No.2>「旧優生保護法違憲判決と生殖医療技術」

7月3日,旧優生保護法(1948年成立,1996年「最終改正」としての母体保護法になる)によって様々な障がい等を理由に不妊手術を強制された人たちが国を訴えた裁判の判決において,最高裁判所大法廷は,「本件規定(旧優生保護法)は、憲法13条及び14条1項に違反するものであったというべきである。そして、以上に述べたところからすれば、本件規定の内容は、国民に憲法上保障されている権利を違法に侵害するものであることが明白であったというべきであるから,本件規定に係る国会議員の立法行為は、国家賠償法1 条1項の適用上,違法の評価を受けると解するのが相当である(判例列記).」(下線は判決文に付されていたもの)と旧優生保護法が違憲であるとの判断を示しました.今でこそ多くの人は「強制を伴う優生政策」というものは,人間の間に「分断」を生み出す「誤った政策」と捉えていると思います.そして,多くの日本国民はこの判決を支持していると思います.
しかし,この旧優生保護法は,1947年に施行された現行の日本国憲法の下, 1948年に議員提出の法案として戦後の普通選挙で選出された衆議院議員(日本社会党,日本自由党,民主党,国民協同党,日本農民党,日本共産党,諸派・無所属)の全員一致で可決されたものです.その背景は複雑です(参考文献1)が,19世紀後半から西欧諸国に起こった「優生学」の「成果」の社会実装として欧米各国で優生政策関連の法が制定・施行されていた状況にあったことは確かでしょう.
19世紀後半から20世紀前半にかけての優生学の誕生とその社会実装としての各国の優生政策の実施の背景には,19世紀後半から20世紀にかけての進化学(論),社会進化論(社会ダーウィニズム),遺伝学の進展との関わりが指摘されています(参考文献2).そこでは,生物について提唱された「進化」という現象を「進歩」という概念と結びつけて考えるか否かが一つの鍵となります.例えば,進化学の進展に寄与した著名な統計学者であるピアソンやフィシャーは優生学を優生政策として推し進めることに寄与したとされています.当時の遺伝学は遺伝子と形質の関係も曖昧なものでした.それにもかかわらず,ダーウィンが「種の起源」の中で自然選択による進化を傍証するために詳細に議論した作物や家畜・家禽の人為選択による品種改良の方法をヒトに適用し,人類から好ましくない形質を取り除き,好ましい形質を持つ個体を増殖させるべきであるという考えが出てくることは,科学的知識を人類の繁栄のために利用するという産業革命以降の当然とされる思考から導かれたものとも考えられます.しかし,そこには科学者の自らの研究成果や知見についての「奢り」や自分の価値観への盲信が入り込む隙は常にあると考えられます.もちろん,一方で,当時の各国の支配階層(階級)の思惑が強く反映されていたことも否めません.
とは言え,第二次世界大戦後の社会における様々な人種差別・女性差別・障がい者差別等の差別の撤廃,人権意識の向上が進む中で,強制を含む優生政策は各国の政策から消えて行きます.同時に,20世紀後半からは生命科学の時代と呼ばれることもあるように,それまで未知であった遺伝子の実体がDNAであることが証明され,1953年にはその二重らせん構造がワトソンとクリックによって解明され,その後20年足らずの間に遺伝子DNAの構造・複製の機構・発現の仕組みが明らかになり,1973年には遺伝子組換え技術が生まれます.こうした生命科学の進展は,物理化学的な解析技術の進展と得られた膨大な遺伝情報(DNAの塩基配列情報)を処理・解析するコンピュータと情報処理技術の発展によってますます加速されつつあります.もちろん,この分子遺伝学以外の生命科学の分野の進展も同時並行的に加速されて行きます.ヒトも含む動物の生殖・発生についての科学的知見・技術の進展も例外ではなく,それは人間自身に対しては生殖医療技術の発展として現れています.
そこでのキーワードの一つは,「出生前診断」です.日本における戦前の国民優生法や戦後の優生保護法は強制を伴う優生政策でしたが,強制的措置を受けたのは子供・成人でした.しかし,参考文献1には,優生保護法に胎児条項(胎児の段階において「障がい」の兆候が確認された場合に,胎児を中絶することを合法化する規定)を取り入れる改正を進めようとした優生政策を進めようとする医学者等の運動のあったことが紹介されています.これは,優生政策の1つの眼目である「人類から好ましくない形質を取り除く」との目的のために,遺伝的継承が疑われる障がいのある個人に対する避妊・断種処置を行うことだけに留めず,胎児の段階でその個体ごと「取り除く」ことを可能にする(1970年代のことですから, さすがに強制という規定を設けるような提案はなかったと思います)考えと捉えられます.
では,「出生前診断」の技術の現状はどうなっているのか.現在,行われている非侵襲性出生前遺伝学的検査NIPT(non-invasive prenatal genetic testing)について出生前検査認証制度等運営委員会(日本医学会内に設置,厚労省も参画)のホームページに掲載されているデータを紹介します.なお,詳しくは説明しませんが,NIPTとは,胎児のDNA断片が胎盤を通して母体の血液に混じり込むこと(この知見自体も新しい発見です)に注目して,母体の血液をサンプルに,ゲノム生物学の進展による成果(ヒトゲノムのデータベース)とそれを支えたDNA塩基配列解析技術を利用して,胎児の染色体数の異常を検査しようという技術です.
2013年から2021年3月までの8年間にNIPTコンソーシアムで行われたNIPTの検査数は101,218件,陽性は1,825件 (#13,#18,#21の3種類の染色体トリソミーの合計), 羊水検査によって最終的にダウン症であることが確定した人の数は1,034人,そのうち妊娠継続を選択された方が38人,子宮内で赤ちゃんが亡くなった方が97人,妊娠継続をあきらめた方が899人となっています.
こうした現状について先に紹介した文献1で著者の横山氏はその副題にもあるように「自発的優生学の系譜」として議論しています.少し長いですが論文の「おわりに」の部分にある関連する箇所を以下に引用します.
「そもそも戦前来の優生結婚で流布された遺伝理解は、「優生思想」や「命の選別」といったレッテル貼りなど到底リアリティを感じさせぬほど、社会に浸透し受け入れられてしまっている。優生学論者は優生学を導入した時期から 1970〜80年代に至るまで国家や民族の優生化を唱え続けた。その手段に婚姻忌避、避妊、中絶もあったが、個々人の自発性という回路がなければ、成立しえない。人々には「遺伝病」への戒が刷り込まれ、国家や民族のためを考えずとも、優生学論者の意図した行動を自発的にとったであろう。その影響は、今日では大半の人々は、優生結婚で重視された血族結婚を避け,妊娠時に酒やタバコを控えるのを当然視するなどのかたちで残り続けている。「優生思想」の批判者たちがこの状況を否定したのを、筆者は見たことがない。」(下線は小早川)
下線を付した「戦前来の優生結婚で流布された遺伝理解は、・・・社会に浸透し受け入れられてしまっている。」,「人々には「遺伝病」への戒が刷り込まれ、国家や民族のためを考えずとも、優生学論者の意図した行動を自発的にとった」という現状認識への評価は置くとしても,人々に「遺伝病」への戒をすり込む過程に,医学者・科学者がどのように関与していたか(その状況についてもこの論文に記載されています)を集団的に考察することは,「日本の科学の自主的・民主的発展につとめ,その普及をはかります」と会の目標の最初に掲げている日本科学者会議のメンバーが求めていることではないかと思います.
なお,2重の下線を付した「血族結婚を避け,妊娠時に酒やタバコを控えるのを当然視する」ことを優生学論者の意図の影響と捉えることには,いささか違和感があります.近系交配の忌避は多くの哺乳動物に認められる配偶行動で,ヒトが人間となる以前から持ち続けた行動形質だろうと考えられます.また,妊娠中の母体の飲酒・喫煙が胎児の個体発生に阻害的影響を与えることは医学・生命科学の研究によって明らかにされたことですが,その研究成果に注意することは,我が子の健やかな誕生を求める親の偽らざる願いによるものと考えれば良いことかと思います.
もっと、短く書くつもりが,長くなりすぎました.最後に優生思想の「好ましい形質を持つ個体を増殖させるべき」と考える側面との関連で,現在その研究と技術開発が急速に進みその社会実装がヒト以外の生物(作物や養殖魚,さらには臓器移植用のブタ)を対象になし崩し的に進みつつあるゲノム編集技術の利用には注目しておく必要があることを,自戒も込めて,一言ふれておきます.

文献1: 横山尊「出生前診断の歴史と現在 − 自発的優生学の系譜」日本健康学会誌 87(4),
2021年, pp.139-160. https://www.jstage.jst.go.jp/article/kenko/87/4/87_139/_pdf/-char/ja
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文献2: 千葉聡「ダーウィンの呪い」講談社現代新書 2023年
(小早川義尚)